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毎度やって参りました。夏と冬の特定の五日間はちょいとした苦行の時期だと思う、いや、実際は曲作ってる人の方がよっぽど修行の時期なのだけど、人様の作品を見て「自分が世界に置いていかれる」感じになる人にとっては地雷源に踏み込むような恐ろしさだ。
店頭で憧れのCDを指さして「ちくしょう!今に見てろよ!絶対に俺もこのCDに入ってやるからな!」みたいなことを心の中で絶叫するような心意気を向上心というのだろうか、実際にその心意気で収録されたCDもあるけれど、それは上手くいったときの話、進まなければそれは嫉妬心だ。
そういう考え方をする性格を「嫉妬マシン」と呼んでいたけれど、たまに色恋に関しての嫉妬マシンだと勘違いされる。大丈夫そういうところに自信なんてビタイチ無い。つまり問題なのはほんのりと自信には思っていることで、これってつまるところ自分のことしか考えていないのだ。
この「人より優れているとは決して思っていないのだけれど特別劣っているとも思っていない」というのが特別質が悪い。だから今月号の伊集院光の対談はその感情を実にスマートに文章に書き起こせていたのでびっくりしてしまった。
嫉妬マシンを向上心に転化出来ずに苦しみ抜く人を同じような境遇になって沢山見れました。「産みの苦しみ」というのも重要な苦しみだと思うけど、「俺小説家になりたいんだ、まだ書いたこと無いけど。」みたいなコレの方が数としては圧倒的に多いと思う。
産みの苦しみと単なる嫉妬マシンがどっちの方がより大事なことなのか、という話になると客観的に見てどっちが大事かなんて一目瞭然なのだけれど、こと自分の話になればそんなことは関係ない、だって自分のことだから!
調布の豪邸は素通りだけれど、公務員宿舎には我慢がならない。音楽で頭がおかしくなってしまうのは大体こっちだ。なんていったって数が多いし、自分から距離が近いから余計に感じやすい。そういう人は大体の場合嫉妬マシンそれ自体の自家中毒でおかしくなってしまうのだけれど、商業作家として鬼のように頑張っている方が「本当はこんなんじゃなくて、作家性で食えれば...」と心底苦しんでいたり、もはや「作家性なんてガキ臭いこと言ってるんじゃないよ!」という方は今度は音楽ではない別の方面で悩み抜いていたり、結局悩みのない人はいないという当たり前の結論に至る。
ここまでの結論はかなり初期の段階で誰でも辿り着くのだけれど、その後の答えは大概「人によって違う」ところに落ち着くので俄然先に進まない。誰かが一言言ってくれた、その人はある分野では強烈な成功を残しているのだけれどやっぱり客観的に見てお金になるとは思えない、でも作家性という面で見るならこれ以上はない成功だ、それでも言ってくれた「隣の芝は青いんですよ。」
「世界から置いていかれる気がして...」というのは悩みが訪れないうちに大量にリリースを実現してる人が言ってくれた言葉だ。商業作家としてちゃんと居場所を持っていて、リリースし続けられるのは尊敬するしかない。けれどちっとも納得いってないらしい。「ちゃんと」出来る日なんてくるんだろうか。
こういう話になる人と「いや、**さんは**出来てるだけいいですよ。僕なんて」という人と「**っていうけどさ、あんなの俺に言わせればただ**っていうだけで」という人がいる、多分僕らは流転してるだけど、隣の芝はずっと青いのか、また、そういう話を「ガッハッハッハッハ」といってただ笑っているだけの人がいる。
この人にも多分凄く悩みがあるんだけれど、ここまでもってくるには一体どうやってきたんだろう。僕らとは道が違うんだろうか。Twitterで「ソフトウェア以前の問題としてハードウェアが違うのではないか」というお話を頂きました。尤もだ思いました。
ある人が言ってくれた。「僕も一杯パーティー行きましたけどね、つまんないパーティーだってありますよ。そういう時はどうするのか、可愛い娘を見つければいいんですよ!それだけでやっぱり楽しくなれるじゃないですか!」この芝は青いのか、今は青く見えるだけなのか、少なくとも今は尊敬出来る。ただひたすら流転する。
「曲作るのって楽しい?俺、絵描くの辛くて辛くて仕方ないんだよね。」と聞かれたことがあって、あぁなんかみんなこうなんだな、と思った。というか楽しいといっている人が本当にいるのかどうかも怪しくなってきた。結局のところ、なんで音楽作ってるの?ということになるんだけれど、そんなことちっともさっぱりわからない。救われた!と思ったんだけど流転してるだけだった。
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↑控えめに見ても頭がどうにかしている、果てしない躍動感。









